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●闇にまたたく光
宮崎監督は漫画版『風の谷のナウシカ』のクライマックスで、ナウシカに以下の台詞を語らせている。「いのちは闇の中にまたたく光だ」と。これは、文明の全てを是として、「正義の光」にたとえがちな人間中心主義に対する宮崎監督流のアンチテーゼである。宮崎監督は、以前以下のように語っていた。
「アメリカ映画に限らないのですが、ヨーロッパからはいってくるファンタジーがありますが、光と闇が闘っていつも光が善なのです。悪い闇がのさばってくるのを、光の側の人間がそれを退治する。それと同じ考えが日本をむしばんでいると思います。」
「森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょうね。でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけです。私は闇のほうにちょっと味方をしたくなっているのですが。」
(鼎談集『時代の風音』)
ここで語られている「闇」とは未開世界、人間の生存権以外の自然である。前述の『ナウシカ』で語られている「闇」は、更に広義に、自然に則した人間生活全般をも指しているように思われる。つまり、「光を際限なく拡大させる人間社会」と「闇に寄り添う人間社会」の違いである。このモチーフは、『もののけ姫』にも立派に受け継がれている。
『もののけ姫』の物語の後、タタラ場に残ったアシタカは、サンと話し合いながら樹を伐り続け、動植物を殺して食べ、鉄を作り続けることになる。それは、余りに困難な共生構造である。だが、破壊と殺戮の中にしか人間の存続はない。その人間としての業を実感しながら生きることは、心に闇を持つことではないか。心を光で満たすことが人間中心主義の破壊と生命倫理の崩壊につながるのなら、逆に心に闇を持つことが破壊の抑制と生命倫理の再生につながるのではないか。
重要なことは、人間と自然が互いに生かし生かされるという生命循環の思想、互いに生命権を主張しながら必死に生きるという共存の思想があるかどうかである。これが芽生えた時、破壊の闇の中にほんの一瞬、生命の共振現象が起き、共存の光が瞬くのではないだろうか。その光とは、人工的な蛍光灯のネオンではなく、生命エネルギーに溢れた自然光であろう。その光の量が、人間の未来を照らすものであると思いたい。『もののけ姫』には、そのような宮崎監督の願いを強く感じる。監督は、以下のようにも語っている。
「光と闇は全部人間の内部に混在してあるものでしかない。人間は汚れを生みだしながらも、その環境の中で生きるしかできないと考え始めました。」(『朝日新聞』九四年二月二四日付インタビュー)
「これから三十年、日本の人口は減りはじめますから、攻撃性を失うんじゃないかと期待しているんです。そして、この島で緑を愛して、慎ましく生きる民族になってくれないかなと。根拠のない妄想ですが…。」
(鼎談集『時代の風音』)
これを宮崎監督が全力を尽くして「次世代へ手渡したバトン」であると解するならば、真の「決着」はわれわれ観客一人一人の前に開かれている。渡されたバトンを持ってどこへ走るのか、それはもうわれわれ自身の問題である。つまり、観客に引き継がれて現実へと続く思想の物語なのだ。
そして、歴史の方向如何によっては、映画『もののけ姫』は伝説的名作となることだろう。五千年の時を経てなお現代を照らす、あの『ギルガメシュ』のように。
参考文献
『緑の世界史(上)(下)』クライブ・ポンティング・著(朝日選書)
『森の日本文化/縄文から未来へ』安田喜憲・著(新思索社)
『森と文明の物語/環境考古学は語る』安田喜憲・著(ちくま新書)
『自然保護を問い直す/環境倫理とネットワーク』鬼頭秀一・著
(ちくま新書)
『生命観を問い直す/エコロジーから脳死まで』森岡正博・著
(ちくま新書)
『森の思想が人類を救う』梅原猛・著(小学館ライブラリー)
『日本人の「あの世」観』梅原猛・著(中央公論社文庫)
『ギルガメシュ』梅原猛・著(新潮社)
『いのちに触れる』鳥山敏子・著(太郎次郎社)
『賢治の学校』鳥山敏子・著(サンマーク出版)
『時代の風音』堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿・著(朝日文芸文庫/UPU)
『出発点[1979〜1996]』宮崎駿・著(徳間書店)