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●エコロジーの行方

 前項で絶望的大状況を提示したわけだが、刹那主義に浸ってあきらめることは宮崎監督の本意ではないだろう。あくまで生き抜く力強さと、人間の可能性への信頼こそ宮崎監督作品の底流を流れる思想と言える。それは、個人の殻に閉じこもって大状況を正視しない現代的な若者文化とは、異質なものであろう。しかし、困難な大状況と正面から立ち向かう者こそが新時代を開拓するのではないだろうか。混沌とした世界にあっても、大状況を拓り開こうとする思想の流れはある。
 宮崎監督は、自らの不健全な生活スタイルから、「エコロジスト」と呼ばれることを大変嫌っている。しかし、八〇年代以降のエコロジー思想は様々に分化・展開しており、一言で括ることは出来ない。あくまで実践重視の宮崎監督に近いと思われる新たな思潮も生まれている。それらを、宮崎監督の思潮と対比させつつ簡単に紹介してみたい。
 まず、「ディープエコロジー」の思想である。
 ディープエコロジーとは、八〇年代アメリカを中心として盛り上がりを見せた実践型の環境保護思想のことである。その起源は一九七三年にノルウェーの哲学者アルネ・ネスの提唱した論文「シャロウエコロジーとディープエコロジー」で、人間を自然の一環に組み込まれた網目の一つとして考えることを核としている。西欧の自然支配主義から、生命相互が関連する平等主義へ転換しようというもので、「なるべく環境を保全しよう」という常識的倫理を唱えるだけの非実践的エコロジーを「シャロウエコロジー(浅いエコロジー)」として批判したのである。
 ディープエコロジーは、個人や企業の自覚を一義に考え、生活様式や発想の転換を強く呼びかけた。具体的には、「ウィルダネス(原生自然)」と呼ばれる大いなる自然に触れ、そのエネルギーを感じ取ること、「生活地域主義」として地域の動植物との共生を中心としたおだやかな小規模社会を実現することなどであった。
 「自然を神(人間)が作ったもの」として利用・支配の対象と教えるキリスト教文化圏にあって、ディープエコロジーは体制批判の思想とも言われた。しかし、「一人一人の変革が環境を変える」とするディープエコロジーには理想主義の限界があった。そもそも自然と共生して来た歴史を持つが故に差別されて来た原住民をどう考えるのか。環境破壊の産業でも誘致しなければ生きていけない貧しい国々の人々をどう考えるのか。
 次に「ディープエコロジー」を「社会問題を切り捨てている」として、真っ向から批判した「エコフェミニズム」の思想を見てみたい。
 エコフェミニズムは、以下のような主張を展開した。
 ディープエコロジーは、「人類が環境を汚染した」と規定するが、少数の原住民や抑圧された女性まで「人類」とするのは誤りである。この「人類」とは、先進国の男性のことである。西欧の合理主義と産業第一主義が、自然環境を破壊し、生命を抑圧する支配の構造を作り上げて来た。それは、女性や少数民族差別の歴史と同根である。つまりは家父長制の男性社会が暴力で自然を破壊し、女性を抑圧して来たのだ。だから、女性の解放こそが環境問題の解決にもつながるのだ。体内に生命を宿すことの出来る女性こそが、本当に生命連鎖を実感出来、環境保護の理念を実現出来るのだ。
 これらの思想は、宮崎監督の思想とも通じるところがある。「ウィルダネス」の概念や「生活地域主義」からは、宮崎監督が好んで描く大樹・森林崇拝や村落共同体を思い浮かべることが出来る。『となりのトトロ』のビデオがアメリカで爆発的なセールスを記録した背景には、ディープエコロジー流行の影響もあったのかも知れない。
 また、女性こそが生命連鎖を実感出来るとするエコフェミニズムからは、ナウシカやシータなど自然に寄り添って暮らす歴代ヒロインを思い浮かべることも出来る。
 ただし、これらはあくまで部分的かつ構造的な類似であって、宮崎監督が特定の「主義者」でないことは明かである。ただ、このような類似点は、ディズニー配給による今後の世界市場の展開に於いて、宮崎監督作品が普遍性を持ち得る根拠を示すには充分ではないだろうか。
 一方、宮崎監督作品には、環境保護の思想だけでなく、次に見るような独特の生命倫理が貫かれている。