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● 絶望の一歩手前の希望

 宮崎監督は、「失われた可能性」というモチーフを反復して使っている。
 『風の谷のナウシカ』は、腐海に埋没する直前の村々や戦場が舞台であった。『天空の城ラピュタ』は、失われた文明の末裔の物語であった。冒頭の舞台は失業者であふれる直前の炭坑の町で、軍隊が台頭する直前のキナ臭さも描かれていた。『となりのトトロ』は、高度経済成長から列島改造論へ至る直前の日本の農村風景が舞台であった。『紅の豚』では、世界恐慌からファシズム台頭に至る過程のイタリアが舞台であった。また、デビュー作である漫画『砂漠の民』に於いても、後にモンゴル帝国によって絶滅させられた架空の騎馬民族の前史を描いていた。
 並べて見ると、いずれも絶望的に環境が改編される一歩手前の舞台背景を選んでいることが分かる。これは趣味の連載漫画などでも、第二次世界大戦末期のドイツや日本の兵器にまつわる物語を多く描いていることからも分かる。そして、いずれも「このような人物たちがいれば、万に一つは絶望が回避されたかも知れない」と思わせるような、快活で聡明な人物たちの物語を作り上げて来たのである。
 もちろん、史実の壁は厚く、数人の英雄的活躍などで絶望的状況は回避されたりはしない。しかし、こんな人物たちがいたら、そして絶望の一手前で大変な冒険を経験していたならば、最悪の状況でも逞しく生き抜いていけるのではないか。そうすれば、歴史はもう少しマシになっていたかも知れない。それは、「失われた可能性」の発掘作業としての作品作りと言うべきではないか。宮崎監督は、以前以下のように記している。
「人間は生まれ落ちたときに、“可能性”を失っているのである。過去と未来に人類の歴史がある中で、一九七八年に生まれた瞬間、あらゆる時代に生まれてくる可能性をその可能性をその人は失ってしまったわけだ。そこで、空想の世界で人は遊ぶ。これは、一種の失われた世界への憧れであり、アニメをつくる原動力になっているといえよう。」(『月刊絵本別冊アニメーション』一九七九年三月号掲載『失われた世界への郷愁』)
 『もののけ姫』の場合、これまで見て来たように「失われた可能性」の発掘作業が細部の設定に至るまで驚異的なほど徹底している。照葉樹林、蝦夷、室町時代の女性職人、タタラ製鉄、石火矢、森の神々―。これらは、単なるお伽噺ではない。これらは、人間中心の近代文明の発展の中で失われてしまった「もう一つの日本」であり、学ぶべき多くの教訓を含んでいるのだ。
 壮大なスケールで「失われた日本」を描き、そこに現代に通じる「自然と人間の関わり」という普遍的テーマを貫くこと、宮崎監督の「決着」の一つはここにあったのではないか。そこには、経済的・政治的閉塞状況下で、最悪の二十一世紀を迎えようとしている現代世界に対する強烈なメタファーが込められている。同時に、現在を「失われた過去」にしないために、作中の人物たちのように絶望的環境であっても積極的に可能性を模索して生きなければならない―というメッセージが込められているのだ。
 これが世界の観客に向けられたキャッチコピー、「生きろ」の意味だったのではないか。