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● 照葉樹林文化としてのラストシーン
前述のように、実際のタタラ製鉄民は、山を伐りっぱなしではなく、樹を植えて、資源再生も行っていた。人工的に管理された里山でタタラ場を囲み、防災と食料自給も行っていた。それは、伐ったら砂漠化してしまうことのない照葉樹林帯なればこそ可能なリサイクル型の産業であった。
映画の後、エボシタタラの人々は樹々と共存し、タタラ場の中にも樹を植えたのではないか。―と言うより、シシ神より与えられた木々を大切に育てたと言うべきか。いずれにしても、シシ神によって「有限なる資源のリサイクル」という環境学的観点を与えられたと考えられる。シシ神をめぐる戦禍の教訓によって、鉄製民(人間)は産業と環境との共存を学んだのである。
これを、もう少し構造的に分析してみたい。
暴走するディダラによって焼かれた山々は、「焼畑」を彷彿とさせる。古来より照葉樹林帯では、木々を伐採して乾燥させた後に火を放ち、焦土を開墾せずに畑にする焼畑農業が行われて来た。それは、最も原始的な畑作農業の形態である。
しかし、この作業はいきなり焼き払うのではなく、事前に神々の土地を侵すことに許しを請う儀式が不可欠であった。人は森の神々に気を使う下宿人であり、主人ではなかった。そして、人が畑作を止めて移住してしまえば、また森は復活出来たのだ。
首を捕られたシシ神は、森の守護神としての力と権威を失い、人々に森をあけ渡すことを余儀なくされた。そして、このことが山々が焼けただれる=焼畑による開墾に直結する。大規模で徹底的な焼畑は、生態系のバランスを崩し、土地の保水力も奪うことから、自然災害が多発し、人は自業自得の苦しみを味わうことになる。これが首を失って凶暴化したディダラの姿に相応する。
しかし、シシ神の首を返還することによって、神としての権威は復活する。ただし、シシ神は朝陽を浴びたために実体を失い、バラバラになった姿で地下に浸透することになった。至る所で森は復活するが、人々の家屋を押し潰し破壊するまでに木々が茂ることはなかったようだ。
これは、森との共存=資源のリサイクルを自覚した人間たちが、自覚的な環境保全を行ったことを意味しているのではないか。ただ、暗い闇を含んだ原生森(シシ神=ディダラ)は一度征服(斬首)され、隅々にまで文明の光(つまり朝陽)があてられてしまったために、神々の威光は失われてしまった。人間の心からの畏怖・自然信仰はなくなってしまった。これがサンの語る「シシ神様は死んでしまった」の意味である。
しかし、アシタカは語る。「シシ神は死なない。生と死そのものだから。」
と。つまり、シシ神への畏怖=森との共存は人の生死に直結していると言うことである。一度実体を殺してしまった神を、自らの心に再生出来なければ、再び森は壊滅してしまうだろう。その時、自然は凶暴化し、資源も枯渇して人心も荒れすさび、文明は滅びてしまうのである。重要なことは、自然と真剣に共生するという観点と、人間の欲望のコントロールである。
アシタカの言葉は、司馬遼太郎氏が生前何度も語った、「人間として最も大切なものは礼節である」という思想を代弁したものではないだろうか。