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● 猩々
「猩々」と書いて「しょうじょう」と読む。大形の類人猿であるオラン・ウータンの俗称を指すと言う。だが、本来の意味は、古代中国に伝わる伝説の怪物で、猿の一種とされる。『広辞苑(岩波書店)』には、「人に似て体は狗の如く、声は小児の如く、毛長く、その毛色は朱紅色で、面貌は人に類し、よく人語を解し、酒を好む」とある。
日本にも『猩々』という演題の能がある。内容は酒に浮かれた猩々が舞を舞うというもの。猩々の役者は、赤い能面をつけて演じる。原型となった猩猩の伝説が古くからあったと思われる。
また、赤褐色は猩猩の血で染めた色と言われ、「猩々緋」と呼ばれた。赤褐色の葉や花を持つ「猩々木」「猩々草」、鮮血色の美しい「猩々蝦」などの派生語がある。更に、酒や甘味に群がる習性のある蝿は「猩々蝿」と名付けられ、酒豪の人を赤ら顔にたとえて「猩々」と呼ぶ風習もある。
このように、猩猩は日本人の生活文化に深く根を降ろしている。その関連語彙は、同じく古くから親しまれた「河童」以上かも知れない。よほど身近にいたと信じられていたのか、あるいは過去に大形猿人か何かの怪物が実在していたのかも知れない。
作中の猩々は、群を成して闇に出没する。両眼は赤いが、体は黒々としている。まるで、亡者か餓鬼のような描かれ方で、神の一族としての誇りは感じられない。これは、宮崎監督独特の猩々像と言えそうだ。
ところで、エボシ御前の小袖はまさに猩々の血を思わせる「猩々緋」で染め抜かれており、「穢れを払う」象徴と言われた「扇子」が染め抜かれている。扇子の黄色は、チベットのラマ信教の衣裳「黄衣」にあるように、「神の色」であったとも言う。これは単なる偶然なのであろうか。
コダマは、「木霊」「木玉」などと表記し、樹木に宿る精霊のことを指す。いわゆる「山彦」のことではない。山彦はコダマの成せる技のほんの一つでしかないと言う。
鎌倉期に編まれた『天地麗気記』によれば、山の神の群族として「木玉神」「応音神」がいると言う。これらは、「天の声」を発する類の神であり、時には人を死に至らしめるとも言う。
『今昔物語』の中に、次のような話がある。ある舎人が山中で独りで歌を詠んだところ、「面白い」という声が聞こえた。恐ろしくなって戻ったが、うなされて死んでしまったと言う。
八丈島や青ヶ島には、森の伐採の際に、コダマの宿る樹を伐るとタタリがあるという伝承が多くある。伐採の際には必ず一本残し、コダマサマを祀り供養をすると言う。
作中のコダマも木々の精霊と思われる。木々の数だけ増え続け、木々の死と共に死に続ける。可愛らしく滑稽なその姿は、何故か人の子供のような形である。木々が人間にさり気なく訴えるべく現れた姿なのか、あるいは人の眼を通すとこんな形に見えてしまうのか。
いずれにしても、宮崎監督が「木々の一本一本に生命が宿っていることの重さ」をヴィジュアル化する試みであったと思われる。それは、ラストショットに明かなように、作品のテーマに深く通じる設定である。