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● 実戦における「石火矢」の活躍
石火矢が伝来した時期は不明であるが、以下のような伝書類から鉄砲伝来前後には既に実戦配備されていた可能性が高い。
『武要辨略』という書物では一五五一年に南蛮人が大友家に献上したとある。また、『豊薩軍記』によれば、一五七六年に南蛮人が石火矢を伝えたので、大友宗麟がこれに「国崩」と命名したと言う。国を崩す超兵器という意味であろうが、余りに不吉であることからこの名は伝わらなかったらしい。一五八六年には、島津軍の攻撃を受けた大友家は、「大震雷」という名の石火矢で応戦し、これを撃退したとことである。大友家の石火矢は、今も二門現存しているが、初期のものかどうかは分からない。
一方、近代兵器に一早く執着していた武将としては、織田信長が有名である。信長は、一五七五年に日本初の鉄砲隊を組織し、一五七七年に大砲三門を有する鉄の軍艦を建造している。この巨大砲も石火矢の名で呼ばれることがあったらしい。
また、天正年間(一五七三年〜一五九二年―安地桃山時代初期)には上杉謙信の家臣が開発した「山口流神器砲」と呼ばれる筒型火器があったとされ、これも現存している。
宮崎監督によれば「応仁の乱(一四六七〜一四七七年―室町中期)に石火矢が使われていた形跡がある(出典など不明)」とのことである。これが事実だとすれば、石火矢伝来は鉄砲伝来より七〇年も遡ることになるが、可能性は十分と言える。
ちなみに、大形石火矢が生産されなくなった江戸〜明治時代には、小型の石火矢「火矢筒」が作られている。これは、七〇センチの中型から七センチの超小型までが現存しているが、見せ物芸やアクセサリーに使われたらしい。
石火矢の実戦での活躍は、ほんの一時期でしかなかったのである。
作中の石火矢は、中国の初期型とほとんど同じ旧式である。砲口から弾と火薬を詰める。中心の球形状に膨らんだ箇所に火門があり、ここに棒状の物で直接点火して発射する。(これを「指火式点火法」と言う。)作中の石火矢には、砲身に中華模様のような紋様、火門の球状部には「虎」などの文字が刻まれているが、実際に文字や文様が砲身に刻まれている砲も多い。「火矢筒」などは全て模様入りであったし、朝鮮製の「銃筒」は文字を刻んだものが多い。
しかし、この旧型の石火矢は日本には現存しておらず、発見された記述もない。日本で確認されているものは、「佛郎機」「破羅漢」と呼ばれた新式大砲であり、いずれも中央の球形の膨らみはない。
作中にはエボシ御前専用の「新型石火矢」が登場する。これは、薬室カートリッジ式の「子母式」と呼ばれる構造の大砲である。これが佛郎機と同じ型なのである。子母式開発以降、石火矢は大型大砲化の道を歩むことになる。
宮崎監督の意図は明かである。師匠連の持ち込んだ旧式石火矢の改良型が、その後各地の戦場で使われた佛郎機であったということだ。作品の舞台裏は、佛郎機の開発過程をも描いているのである。
また、この新型機の着火装置は、指火式でも火縄式でもない。絵コンテからは正確には分からないが、おそらく「歯輪式」「鋼輪式」と呼ばれる装置であろう。
カートリッジ脇にある「鶏頭」と呼ばれるS字型部品の先端に黄鉄鉱をくわえさせ、それに銃身部内にある歯車を回して摩擦で着火させるというものである。つまり、現在の百円ライターのような着火構造である。摩擦回転がより速くなったものが「鋼輪式」である。全国的に火縄式が普及した日本では、この型の銃が作られた記録はない。ただし、一八一四年頃考案されていた記録もあり、作られていた可能性もある。
和製銃の着火装置は「火縄式」だけではなく、「歯輪式」の佛郎機もあった―、つまり、タタラ職人たちの技術の素晴らしさは、まだまだ知られていないという独特の解釈である。ここにも、歴史の可能性を信じる宮崎監督の姿勢が貫かれている。

大筒立放の図。火縄銃を立って撃つ時のかまえ。
(火縄銃/所荘吉/雄山閣)