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●製鉄による森林破壊
記録によれば、一回のタタラ製鉄で砂鉄十九トンと木炭十五トンが消費され、出来る鋼はわずかに五トン程度であったと言う。炉の新設時には、炉床の基礎工事と地盤乾燥に一五〇トンもの薪を焚く。一回の製鉄作業に一山丸ごと消費するとも言われた。まさに「山が鉄を作る」のである。
製鉄の歴史は古く、稲作発生以前とする説もある。人類は、製鉄技術を開発したことで、森を切る速度を格段に速くすることとなった。鉄製の農機具と調理器具を開発して安定した食料を得た。鉄製の武器を開発して大量殺戮と部族抗争の果てに大国家を作り上げた。しかし、その結果として、自らの首を絞めるほど環境を破壊してしまった。
中国や西アジア、ヨーロッパなどで進行する砂漠化・禿山化は、もとは製鉄(初期は製銅)で樹を切り過ぎたためとも言われている。太古の彼の地では、樹を植える習慣もなく、森林も復活しなかったのである。文明は森を伐って栄え、伐り尽くして滅んだのである。
ところが、照葉樹林地帯では、湿潤な気候のため、かなり切っても回復が可能だった。このため、近世までの製鉄民たちは切っただけ樹を植えて、三十年程度で戻って来て作業を再開したと言う。(江戸時代末期には、これが土佐藩によって「番繰山」という名で制度化された)その間は場所を移動しながら回遊していた。豊富な水と樹に恵まれた日本は、まさに製鉄民にとって最高の操業地域であったのだ。中でも、作品の舞台となった出雲地方には、もっとも古くから製鉄民がいたと言われている。
平地の稲作農民にとって、鉄穴の泥と排水を下流に流し、山を崩して自然災害を引き起こすタタラ者は、天敵であった。出雲には、スサノオノミコトが火炎を吐く大蛇を退治する伝説がある。これを被害に苦しんだ農民が大和朝廷に訴え、製鉄民が平定された話―とする解釈は多い。
最近の考古学では、弥生時代以降、日本の森が急激に減ったことが明かにされている。日本の稲作は、弥生時代以降に全土に広がったわけだが、当初の開墾時期にはすでに鉄製農具が使われている。稲作と同じ時期に、製鉄も発生したのである。鉄器で森を切り、焼畑と鉄製農具によって開墾された稲作地帯が急増したのだ。
いくら照葉樹林地帯でも、人の手による開拓が余りに急激であれば、樹が生える余裕はない。邪馬台国の謎の移動も、製鉄で失われた森を求めてのものだったとする説もある。
以来、日本の森の減少は現在まで続いている。
権力に欠かせない武器や庶民の必需品を作り出す製鉄民は、他の職人たちと共に、幕府や朝廷の特別な保護を受けていた。陸路・海路の自由通行権の付与、年貢を取らない免田耕作の許可等々。製鉄民の保有数=鉄の生産量が、国の政治力を決することにもなっていたのだ。
一方、手配中の犯罪者や身元不明の者など、怪しげな身分の荒くれ者が、世間の目を忍ぶために製鉄民となったケースも多かった。恩寵を受けているが故に、政府のおとがめなしの解放区でもあったのだ。とりわけ単純だが重労働のタタラ踏みには、荒くれ者が多かったと言う。
エボシ御前のような婆娑羅の女傑が、特権を利用して職能民女性や荒くれ者を集めて小国のごとき共同体を作っていたのも、あり得ない話ではない。