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作中の蝦夷の村には、上下左右四つの半円を直線で結んだシンボルマーク的な模様が多く用いられている。この渦のような紋にも何らかの含意があるのではないか。渦巻紋や卍型紋は、アイヌやロシアの女真族の衣裳に多いと言う。
アシタカの救出に駆けつけた男は、この紋をあしらった木の盾を持っている。この形状は、隼人が用いたと言われる「隼人盾」に似ている。隼人盾にも渦巻紋が描かれているが、これは雷を示すという説がある。
巫女のヒイさまの着物にも同じ紋が見られるが、これは刺繍か染め抜きか、それともアップリケか。アイヌには「ルウンペ」と呼ばれるアップリケの技術がある。作中の紋も「ルウンペ」によるものかも知れない。
着物自体の素材は、アイヌの衣裳「アトゥシ」に習えば、植物の甘皮「靭皮」から織り出したものと考えられる。「アトゥシ」は、アイヌ語で「オヒョウ(ニレ科の木)」の意である。沖縄には、同様の靭皮繊維で織った芭蕉布がある。いずれも非養蚕民の文化である。アシタカの村も靭皮繊維の文化があったのではないか。
一方、宮崎監督が参考にしたと思われるブータンにも、どてらのような「ゴー」と呼ばれる着物があり、現在も着用されている。尤もこちらは、シルクロードの影響下で養蚕も盛んであり、木綿または絹製である。
また、作中の衣裳は男女共、紺系で黒っぽい。これは、「藍染め」ではなかろうか。藍の原種であるリュウキュウアイは沖縄・九州から南方の照葉樹林地帯に多く生えており、栽培もされていた。新種の藍が自生していたのか、あるいは、特殊な交易ルートがあったのかも知れない。
以上は憶測も含めての展開であったが、衣裳の不明な蝦夷の風俗を実在の民族衣装を基に発展させた監督の苦労が偲ばれる。
アシタカの出立に際して、妹カヤは黒曜石のナイフを手渡す。それは、結婚の際に乙女が変わらぬ心の印に異性に贈る「玉の小刀」であると言う。カヤのアシタカへの思いの深さを知ることが出来る。
火山付近で多く発掘される黒曜石は、切り口がガラス状に裂けることから神秘的な印象を受ける。縄文時代中期、黒曜石文化が各地を覆っていた。黒曜石は、鏃、呪術具、アクセサリーなど多くに加工された。採掘出来ない地方では、貴重品として扱われていた。
黒曜石は、北海道十勝岳、中部日本の和田峠、九州の姫島・阿蘇山を三大産地として、ここから半径二〇〇キロ範囲で出土している。これは、縄文時代に広範囲の交通路が存在し、黒曜石の大交易が行われていたことを示している。
蝦夷が、東北には貴重な黒曜石を宝として扱うのは、あり得る話だと思われる。黒曜石文化は、宮崎監督が敬愛する考古学者の藤森栄一氏の著書にも詳しい記述がある。
ヒイさまは、アシタカに「掟に従って見送りはせぬ」と告げる。死出の旅路であるからか、「隠れ里」を出る者だからか。アシタカは結局戻らないのだが、一度出た者は戻れない掟なのであろう。
蝦夷の中には、古くから大和への帰化・同化をする部族が多かった。武力で恫喝され、やむを得ず同化した者も多かったが、利害関係で自ら同化した者も多かったらしい。稲作による安定した食料や、都文化への憧れもあったのだろう。夜逃げ同然に深夜村を出て行った者もいたのではないか。
そして、同化蝦夷たちは朝廷の征夷の際に動員され、ある者はスパイとして出戻り、ある者は侵略兵として同族に弓を弾く役割を負わされるのだ。昨日の隣人が今日は自分を殺しに来る。蝦夷の経験して来たこの悲惨な歴史が、一度大和の地へ旅立った者は戻らない→大和の地へ旅立つ者は見送らない、出発は深夜に限る、そういう掟を作り出したのではないか。
アイヌには、「和人(シャモ)に化かされるから和人の里に近づいてはならない」という類の伝承がある。和人との交易で酷く欺かれた経験があったのだ。これも、苦い教訓が伝承となった例と思われる。
沖縄には、自殺した者は一族の墓に埋めてもらえない―つまり沖縄に還れないという風習がある。自ら死を選ぶことは「生き抜け」という先祖の意志に背くことになるからである。アシタカの場合には生きんがための旅立ちであるから逆であるが、同族保存の意志に背く行為が歓迎されないという掟の構造は似ているように思う。