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● 隠れ里と椀貸伝説
アシタカは「隠れ里」の村に住んでいる。「隠れ里」とは何か。
古来、人間が到達出来ない深山の奥地や、水底にあると伝えられる異世界は「隠れ里」として伝えられて来た。
人寄せで多くの椀が必要な時に、池や淵に行って頼むと貸してくれるという「椀貸伝説」は全国にある。貸し主は不明なままか、龍神、蛇などの水神の場合が多い。隠れ里から取って来た椀を持っていると幸福になるという伝説もある。『浦島太郎』の竜宮城も、この類型である。
近世には、次のような隠れ里の記録があると言う。「山奥から機織りの音が聞こえたり、川の上流から米のとぎ汁や椀が流れて来て、その存在を知った」、あるいは「狩りに出かけて偶然見つけた」など。いずれも、再び行こうとしてもたどり着けないという例が多い。
隠れ里は空想上の地ではなく、実在の村を元にした伝説だとも言われる。
それは平家の落人の末裔であるとか、縄文時代の末裔たる山民であったなど、諸説ある。山形県と新潟県の県境、岩舟郡朝日村奥三面はかつて隠れ里と言われたそうだし、他にも地名に「隠里」と残る地域もあるようだ。
もし、東北地方の辺境のどこかに隠れ里が実在したのであれば、それは「蝦夷の末裔が落ち延びて住んだ村」であった可能性も考えられる。
また、何故か椀にまつわる伝説が多いが、人里では見慣れない特殊な形の椀だったのであろうか。とすれば、アシタカの椀が特殊な形をしているのも、「幸福伝説の元になるような」という描写意味があったのかも知れない。
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ろくろ細工され、黒漆で塗装された木椀(照葉樹林文化と日本/くもん出版) |
アシタカの村には石垣で囲われたアワとヒエの段々畑が描かれている。これは、山の急斜面を苦心して開拓した畑であり、平地に住むことのできない虐げられた民であることを感じさせる。おそらく焼畑農業であった筈だ。
粟と稗は、最も歴史の古い雑穀である。この村はアワ・ヒエ、そば・ムギなどの雑穀を主食としていたと思われる。それは稲作伝来以前の照葉樹林文化の典型的な食文化である。
アワやヒエは砕いて臼でつき、餅状にしたものを蒸して食べる(チマキのようなもの)か、粥(シトギと言う)にして食べる。これは、中国中部や北タイ、台湾などの照葉樹林帯に広く分布する調理法である。南九州の五木村でも、一九六〇年代まではソバ・ムギなどと共にアワ・ヒエを食べていたことが確認されている。
なお、作中アシタカがヤックルに与える餌は絵コンテによれば、「ムギ」とあるので、やはりムギの栽培も行っていたのであろう。
西村真次氏の著書『万葉集の文化的研究』によれば、「占い」の語源は、ツングース語のトナカイを意味する「Ula」であり、つまり日本では鹿を意味したと言う。中国東部からシベリアに分布した北方騎馬民族ツングース系民族は、古代日本に多大の文化的影響を及ぼしたと言われる。(ツングース系民族が弥生時代に渡来して、大和王朝を築いたとする説もある。)
古代日本には「鹿ト」「太占」と呼ばれる占術があった。鹿の肩甲骨や肋骨の表面を剥いだ上に、火をつけた小枝か焼火箸を突っ込んで、その亀裂を見て占うのである。鹿トは、中国・朝鮮から伝わった亀の甲羅を焼いて占う「亀ト」よりも更に古い歴史を持つと言う。
人里近くの森に棲む鹿は、古代から祭祀と関係が深い。弥生時代に作られた謎の神器・銅鐸にも「鹿紋」と呼ばれる鹿の絵が刻まれている。後述のように、鹿は神として祀られていたのだ。
作中蝦夷の村で、ヒイさまがアシタカを占う際に使うのも鹿角と鹿骨である。火を使わず鉱石や木片と併用して放るという特異な占いだが、これも鹿トの一種(運命判断や方角占いの類か)と思われる。
アシタカは、鹿の骨が示した方角に趣き、鹿の神に逢ったことになる。