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● 隼人・熊襲・国樔・土蜘蛛
蝦夷と同様に、近畿以南には「隼人」、九州には「熊襲」という民族が在ったが、これらの諸族も大和によって併合された。
「隼人」と「熊襲」は同一民族だとする説が多いが、異民族説もある。民族の全貌は、蝦夷同様謎のままであるが、その起源をインドネシアなど南方系に求める説も多い。
また、蝦夷・隼人・熊襲は、いずれも野生動物を冠する文字で表現されている。これは、蝦夷の「蝦」は水棲生物の「水」、隼人は文字通り鳥であるから「空」、熊襲は陸上動物の「陸」をそれぞれ意味している―とする説がある。つまり、この三民族の当て字は、水・空・陸の世界構成要素を全てを天皇が支配したという権力神話的な意味が込められていたのではないかと言うのだ。この説からも、大和の侵略的側面が見てとれる。
一方、これら地域定住型で国家らしきものを形成していた民族とは別に、
各地に散見された民族もいた。「国樔人」(『日本書紀』の『応神紀』に記載)、「土蜘蛛」「佐伯」(『常陸国風土記』に記載)などがそれである。
いずれも、大和とは異種の文化圏を持ち、山に住んでいた非稲作(特に水田)民らしい。これらの諸族も失われた民であり、実体はよく分からない。
このように、古代日本には多種多様の民族が併存していたのである。中でも、朝廷に対する最大級の抵抗闘争を繰り広げていたのが蝦夷であった。
● 征夷政策と蝦夷の絶滅
六世紀頃までは、蝦夷の一部は大和と属国関係を結び、平和的交易も行っていた。しかし六四五年に「大化の改新」が起き、六五八年には阿倍比羅夫らによる蝦夷征伐(征夷)が行われる。さらに、八世紀に律令国家が成立するに至り、大和は蝦夷に対する侵略政策を飛躍的に強化していく。差別的待遇(奴隷的使役)や領土侵略(村の焼き討ち)などに対して蝦夷の諸族の不満が高まり、ついに武装蜂起が起きるようになる。一方、国境では蝦夷側の亡命者や難民が相次いで流入して来た。これに対し、律令国家は、「城柵」を東北各地に設置し、侵略の前線基地と出張官庁を兼ねた業務を行わせた。七三七年には要所である多賀柵(宮城県多賀城市)が築かれた。これが七八〇年には多賀城となる。
七七四年律令国家は、ついに二万七千人の大軍を派兵して征夷の大戦争を開始した。以降、八一一年の沈静化に至るまで三十八年間もの間、大和対蝦夷の戦争は続いた。当初は、蝦夷の騎馬を駆使したゲリラ戦術に壊滅的打撃を受けていた征夷軍であったが、七九四年の十万人の大軍を派兵した掃討作戦などにより攻勢に転じ、勝利を手中にした。この結果、日高見国周辺(現・岩手県)の蝦夷は滅亡の道を余儀なくされたのである。
当然だが、蝦夷の戦力や人口は小規模であった。徹底抗戦の意志と巧みな戦略抜きに、戦闘の長期継続は不可能であった。この史実から蝦夷の優秀な組織力や戦闘力を伺い知ることが出来る。三十八年戦争を闘った蝦夷を指揮していた者は「アテルイ」という名であった。八〇二年、アテルイは大和の和平勧告に応じて一族五〇名と共に生命を保証された捕虜として入京したが、だまし討ちに合って河内で斬り殺された。当時の征夷大将軍・坂上田村麻呂は、後に「征夷の英雄」として語り草になっている。
更に時代が下り、平安時代になると安倍氏が東北一円を支配し、ついには朝廷軍と闘って勝つという「前九年の役(一〇五一〜六二)」が起きる。安倍頼時は一時和平に応じたが、息子の貞任・宗任兄弟は再び反乱を起こし、一〇六二年源頼義に討たれるまで抗戦を続けた。
さらにその後、安倍氏と縁故関係にある清原氏が勢力を伸ばし、一族間の闘争が激化し「後三年の役(一〇八三〜八七)」が起きた。源義家がこれに介入して鎮圧したことから、源氏の東北支配が始まったと言われる。この安倍氏・清原氏が蝦夷の末裔と言われる。この事件以降、蝦夷の影は歴史から姿を消してしまう。
このように、蝦夷は一貫して「伏わぬ民」であった。大和(日本)の他民族侵略=単一民族化への衝動は、この蝦夷征伐に端を発し、近世史の蝦夷(アイヌ)地侵略、琉球(沖縄)処分、更には現代史の朝鮮・中国侵略と触手を広げて行くのである。
作中、蝦夷の長老が「朝廷との戦に破れて五百年余」と語るシーンがある。室町時代という設定から逆算すると、その戦とは「前九年・後三年の役」のことを示すと思われる。アシタカは安倍氏か清原氏の末裔か、あるいはそれに加勢した部族の末裔なのかも知れない。