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3 現代的なファンタジーの可能性を信じて…

 この宮崎氏の「イバラード」への憧れは、本質的には「空間把据」という美術表現1般ではないと思われる。
 井上氏の「イバラード」は、「砂の惑星」や「ダーク・クリスタル」のようなリアルに設定されたSF的な異世界や異星ではなく、どこか日常生活の中から空想されたような不連続的な曖昧さが、独特の優しさを醸し出しているように思われる。「イバラード」には、政治的・社会的・経済的空気は全く感じられない。重力も自在で、建造物の柱は植物のように大地に溶着している。実に不自然なのだが、何故か原風景的な懐かしさが確かにある。それは、実景の中から印象を膨らませて1枚絵を仕上げる作業を、より空想的に発展させたもののようだ。宮崎氏は、「現実の風景からファンタジーを紡ぐ」というこの井上氏のスタンスに、最も興味を惹かれているのではないだろうか。
 宮崎氏も高畑氏も語っているように、現代にファンタジーを作り出すのは困難である。冷戦が崩壊し、敵(管理主義・独裁体制)VS味方(欧米型の自由経済主義)という安易な対立構造による冒険・成敗物語が失墜し、民族紛争や環境間題、宗教による精神解放や内面葛藤などが人類史的なテーマとして浮上していると考えるならば、安易にファンタジーを作って観客にカタルシスを与えるのは意義がない。では、新しい時代のファンタジーはどこへ行けばいいのだろうか?宮崎氏は語る。
 「(ジブリの)近くにコンビニエンスストアがあるが『コンビニがこんなに灯りをつけやがって』と思うとおもしろくないが『イバラード!』と思ってみると『オオ、美しい!』となる。光が輝いていて、高速ホタルが飛ぴ回ってという感じになる。彼の感じ方を追体験出来たようで、そういう目で描いてみるのも悪くないなと思ってますよ。そう思うと『つまらない世の中』にも、まだ見るものがあるだろうと。(前述・MOEより)」 どうやら宮崎氏は、「耳をすませば」で多感な少女の空想世界を描こうと考えた際、この井上氏的発想を多いに採り入れたのではないだろうか。それは、「日常世界を鋭い観察によって認識し直す」という高畑氏のリアル志向と底流で1致しながら、それをもファンタジーとして昇華しようという宮崎氏の新たな挑戦と言えるのではないだろうか。混沌の時代に新たなファンタジーは生まれるのか。心して見守りたい。

「耳をすませば」公開記念 井上直久展 ―バロンのくれた物語―
於 東京・恵比寿三越(95年8月1日撮影)

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